相続開始の直前において被相続人の預貯金の口座からまとまった額の現金が引き出されることはよくあります。最期のときが近づき動けなくなった本人に代わって、そのご家族がカードと暗証番号を預かってATMで引き出すわけです。
現金を引き出す理由
・入院代や葬式費用など相続開始前後の多額の出費に充てる
・亡くなった人の口座は金融機関によって凍結されるからその前に引き出す
という考えが、相続開始の直前に現金を引き出す背景としてあるようです。
遺産としての現金
被相続人の預貯金から相続開始の直前に現金を引き出した場合、基本的に、その現金のうち相続開始までに費消した分を除いた額については、相続開始時において現金として残っているわけですので、これを被相続人の遺産として計上すべきことになります。
直前引出額 ― 相続開始までの費消額 = 現金(遺産)
引き出した現金について記録と証拠を残す
遺産として計上するからには、遺産分割協議や相続税申告においてその金額についての信頼性・正確性が要求されることになります。要求してくるのは、遺産分割協議においては他の相続人たちであり、相続税申告においては税務署です。
そこで、被相続人の預金口座から現金を引き出したご家族の方には、現金の引き出しとその使途についてその都度記録(日付、内容、金額)と証拠(領収書など)を残しておくことを強くお勧めします。
記録は、紙に手書きでもパソコンの表計算ソフトでも何でもOKですが、下のような現金出納帳の形式がベストだと思います。
月 | 日 | 摘要 | 入金 | 出金 | 残高 |
---|---|---|---|---|---|
5 | 22 | 〇〇銀行 ATM | 500,000 | 500,000 | |
25 | ◇◇薬局 薬代 | 2,500 | 497,500 | ||
25 | △△病院 入院代 | 120,000 | 377,500 | ||
6 | 1 | 町内会 赤い羽根募金 | 1,000 | 376,500 |
時間がたつほどに証拠は散逸し記憶は曖昧になってしまいます。面倒なことではありますが、お金を預かる者には説明責任がついてくるものです。要求される信頼性・正確性が保てるよう、記録と証拠を出来るだけ適時にしっかり残しておきましょう。さもないと、相続人どうしで、あるいは税務署と、揉める原因になってしまうかもしれません。
本当に相続開始直前に引き出す必要があるのか
ところで、本当に相続開始前に被相続人の預貯金から現金を引き出す必要があるのかどうか、冷静になって考えてみた方がいいかもしれません。
多額の出費に充てるため……
第一に、引き出す理由の「入院代や葬式費用など相続開始前後の多額の出費に充てる」という点に関しては、ご家族の固有の財産のなかから払うことが出来るのであるならば、いったんご家族の固有の財産から支払っておいて相続開始後に精算する、という方式で特段差し障りないように思います。
口座が凍結されてしまうから……
第二に、「亡くなった人の口座は金融機関によって凍結されるからその前に引き出す」という点に関しては、実は亡くなった後においても預貯金から現金を引き出す方法は残されています。
まず、金融機関が死亡の事実を把握するまでは口座凍結はないので、事実上相続開始後においても引出は可能です。市役所などに死亡届を提出したとしても、それが金融機関に通知されるわけではありません。ほとんどの場合、金融機関が死亡の事実を把握するのはご遺族自身が金融機関にその旨を通知したときです。つまり、凍結のタイミングはご遺族がコントロールできるわけで、どうしても必要なお金を引き出してから死亡の旨を金融機関に伝えるということも可能なわけです。
ただし、これは遺産を勝手に処分しているようなものなので、場合によってはトラブルのもとになります。やむを得ずやるとしても必要最小限の範囲にとどめ、使途について記録と証拠を残しておくべきです。
次に、金融機関が死亡の事実を把握して口座が凍結された後であっても、公正証書遺言があってそこに預貯金の取得者についての言及がある場合には、死亡後すぐに預貯金の解約・名義変更の手続きに入ることができます。
さらに、金融機関が死亡の事実を把握して口座が凍結された後で、かつ、遺言がない或いは遺産分割が成立していない状態であったとしても、相続人は被相続人の預金を一定額まで仮払いとして引き出すことができる制度があります。
これは最近の民法改正により令和1年7月にスタートした新しい制度です。各相続人は遺産である預貯金のうちその金額の3分の1に法定相続分を乗じた額(ただし、金融機関ごとに150万円が限度)の範囲内で払戻しを受けることができます(民法909条の2、平成30年法務省令29)。
相続人であることの証明書類としての戸籍を揃えなければならないなど一定の事務手続が要るため、火急の出費に対応するにはやや不便な面があるものの、それほど急ぎでない出費のためであればこの制度で相応のお金を用意することができるものと期待されます。